誰だって失いたくないものは多いのです

2010年3月18日

この社会の曲がり角で、ちょっと立ち止まって考えてみました。

既得権益というと政治的なニュアンスがすごくありますが、利権という程ではなくとも、一旦つかんだら手放したくないということは、社会の中で普通にありえることです。ワークシェアリングを普及させたくても、いっこうにそういう機運が出てこないこともそのひとつの例かもしれません。

これは、自分さえ良ければいい、ということとは少し違うような気がします。それよりは、この、今ある立ち位置や仕事環境を失いたくない、他の人に仕事を取られてしまうんじゃないか、という恐怖感や強迫観念に近いと思います。

今までの日本には、変わることに対しての行動を「普通のこと」としてとらえにくい風土がありました。そのため、そういうことに人々は臆病になり、「大変な決断を迫られている」という錯覚に近いような考えにとらわれていたのではないでしょうか。

冷静に考えると、変わりたくないと思ってみても、自分の置かれた環境自体が変わろうとしている時に、それを拒絶しながら生きていくことは結局のところ無理なのですね。仙人(世捨て人)になるのなら別ですけど。結局のところと書いたのは、それに個人差(企業の中の立ち位置の差ということでもあるけど)があるからです。

早いか遅いか、それが問題?

拒絶して生きていくには、それに耐えられる「体力」が必要です。もちろん、「体力」とは「お金」と「時間」のことです。それにさえ余裕があれば、本人には先がどうなるかがほぼ見えているに違いないのだろうけど(認めたくないだけで)、まだ何とか凌ごうか、となるわけです。

これは、善し悪しの問題ではなくて、そこにいくのが早いか遅いかの問題だと思います。若い時であれば、お金が多少あってもまだ先は長いわけですから、意外にすんなりと踏ん切りを付けられる場合が多いかもしれません。逆に、定年までもう少しという頃だと、「お金」や「我慢できる時間」が許す限り、踏ん張りきれてしまう可能性の方が高いのです。

先日の日経新聞電子化のニュース後に、いろいろな方のブログや識者の感想を読んで思いましたが、これなんかもその『変わりたくない派(紙媒体メインの守旧派)』と『変わらないと今後俺たちやってけないぞ派(電子版チーム)』という日経内部の戦いなのではないのでしょうか。

いろいろな業態のあり方が、技術革新やシステム変更によって変わっていきます。『業界標準という基準』そのものが時代とともに変更していくことは、世の流れに任せるしかありません。思えば自分が仕事の世界で、そういうものが大きく変わるたびについて来られたのは、その「まだ先は長い」という考え方もあったからなのでしょう。

社会も業界も技術も、今また大きな変化が訪れ始めています。「時間」はもう微妙なところですが、「お金」は許してくれなそうです。記憶力が鈍ってきた脳で必死についていくしかありません。

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