凡人は、変なヤツらにこそ憧れる

2014年3月16日

好きな本の一冊に、嵐山光三郎の『文人悪食(ぶんじんあくじき)』がある。文豪といわれた37人の作家の食生活が、作家自身の作品にどのような影響を及ぼしているかを膨大な時間をかけて取材〜調査し、著者嵐山氏の主観をバリバリ交えてまとめあげた力作だ。単行本の初版は1997年に出ているので少し古い本だが、今繰り返し読んでも目からウロコで新鮮。

 

登場する作家は、夏目漱石から三島由紀夫までの錚々たる面々。昔から「食は人なり」という。その人を知るなら、食生活を見ろ!だ。最近では「食育」という言葉もあるよね。幼い頃から食べてきた物、好き嫌い、食事の摂り方、誰と食卓を囲むかなどが、多かれ少なかれ人格形成に影響を与えるらしいのだ。ただ、それは一概に食べ物のせいだけとは言い切れないところに、人生の不条理みたいなものが見え隠れする。

石川啄木は、その作風から生家が貧乏で食べるものにも困って育ったようなイメージがあるが、実はそれほど貧しいわけではなく、4人兄妹の唯一の男子だったこともあり、甘やかされてわがままに育ち自己中心的な性格になったらしい。東京に出てから本当に貧しくなっても我慢はせず、いろいろな人にたかっていたということだ。

著者が啄木のことを書いている中で次のように文章が出てくる。

啄木はハイカラである。辛酸をなめつくす貧困のなかからは啄木のようなハイカラな歌は生まれない。よく知られている「ココアのひとさじ」の詩がそうである。

はてしなき議論の後の/冷めたるココアのひと匙をすすりて、/そのうすにがき舌触したざわりに、/われは知る、テロリストの/かなしき、かなしき心を。

この情景でテロリストが啜るのは、断じてココアでなければならない。テロリストなのだから、もっと安い渋茶であるとか、昆布茶、塩湯、甘酒、味噌汁、あるいは白湯さゆのほうが分相応という理屈は成立するが、この詩では、テロリストがココアを啜るからこそ、テロリストの孤独な匂いは伝わるのである。

『文人悪食』より

どうですか?なんかゾクゾクするでしょう。「啄木は貧しい苦労人」というイメージが音を立てて崩れるような、ね。

この本を読むと、後世に名を残す作家ほど変な人、悪人、性格破綻者だったりするんだなー、と唖然とする。まずもって清貧はいない。悪食で貪欲なのだ。作家に限らず、アーティスト、ミュージシャン、俳優など、エンターテイメントの分野で一時代を築くような人たちの中には、そういう人が多いんじゃないかな。発明家、革命家もそう。エジソンやジョブズだって、一般社会人としては変人である。人によっては悪人だとも思っていたことだろう。

映画黄金期のスターたち、萬屋錦之介や勝新太郎、石原裕次郎や松田優作だって相当に変わり者だったという話だ。歌手・ミュージシャンもしかり。ディック・ミネ、村田英雄、はてはマイケル・ジャクソンまで、みんな常識では考えられない逸話が残っている。この本にも出てくる、岡本かの子のご子息である岡本太郎もご覧のとおり。

その分野で一歩も二歩も抜きん出た存在にはそういう人が多い。むしろ日常がそうだからこそ、スターになったといえるのかもしれない。なぜなら、凡人と同じような生活を送っている人が生み出すアート・芸を観たり聴いたりしても、感動することは少ないからだ。変な人が作るからこそそれは面白いし、輝いて見えるのだと思う。

人は本来、とんでもないヤツが書いた本を読みたいはずだ。また、観たこともない個性をスクリーンに求めている。日常ではない「ハレ」を観たいのだ。最近の文芸や芸能界にスターが現れなくなっているのは、日常が優等生的な人ばかりが活躍できる風潮になったことに原因があると思っている。メディアもわれわれ凡人も幼児化(オコチャマ化)してしまい、変なヤツの出現を許さず、出る杭を打ち続けているのではないだろうか。

関連記事

    関連する記事は見当たりません。

コメントを残す