永遠に謎の人物、タモリという人

2014年2月12日

お昼の顔として、今や知らぬ人はいない男の番組が終了する。唯一無二の芸能人、タモリ。テレビが普及し、芸能文化のタレントが全国的に知られるようになった昭和以降では、稀有な存在だと思う。別に芸能界を去るというわけではないだろうけれど、特集本が出ていたので読んでみた。

文藝別冊『タモリ』というムック本。初版が1月の発行だが、購入した本は既に2刷である。この雑誌受難のご時世に、売れているのだろうか。表紙コピーに「芸能史上、永遠に謎の人物」とある。作家の筒井康隆やジャズピアニストの山下洋輔のような、タモリにゆかりのある多数の人物のインタビューやコラムが中心の編集となっている。巻頭のタモリに宛てた芸能人のメッセージには、追悼文のようなジョークを効かせたものもあって笑える。

いわゆる生前トリビュート本であるが、読むと本当に亡くなってしまったかのような錯覚を覚えたりするところに、タモリ本らしいブラックさがある。これ、Amazonのレビューではタモリ本人への否定的コメントが散見されるのだが、どうも好き嫌いだけで書いているとしか思えない。本人の著書でもない場所にそういうコメントっていらない、と思いませんか。

これはタモリ情報を得るために買う本ではない。そういう薀蓄はWikipediaにほとんど載っている。でもファンであれば、ここに寄稿している人たちの文章は一読の価値があるんじゃないか。赤塚不二夫や平岡正明、安田南など、既に亡くなってしまった人たちの過去に発表された文章は、今読んでも相当に面白い。吉行淳之介が広告批評に書いたエッセイが載っているが、特に最後に出てくる次の一文が見事にタモリを表現している。

なんだろうねぇ、あれは。

もちろん、吉行淳之介はタモリの賢さを知っている。その上での「得体の知れなさ加減」発言である。いくら頭が良くて世渡り上手であっても、その人の持つ挙動や雰囲気やセンスには、計算づくで生み出せないものがある。それを落語の世界では「フラ」といったりするが、だから「なんだろうねぇ」なのだ。最大の褒め言葉だと思う。

編集後記に書かれているが、タモリという人は断絶の人である。世代間によって印象や評価がまったく異なるらしい。確かにそうだろう。はっきりいえば、「いいとも前」と「いいとも後」である。どちらも知っている世代としては、圧倒的に「いいとも前」の奇想天外な芸や「今夜は最高!」のようなセンスに軍配を上げる。しかし、「いいとも後」でも「タモリ倶楽部」が継続していることや、「ブラタモリ」という新しい側面をみせてくれたことも興味深い。初期タモリ原理主義の人たちは「いいとも後」が許せないんだろうけどね。

どちらが本来のタモリか、ではなくどちらもタモリだ。自分の持分を使い分けていることに間違いはないが、どちらもストレスが溜まらないからこそ長く続いているのだと思う。ジャズや鉄道、坂道など、適度にオタク度があることも、その筋のお歴々との絡みが増え、ファンを喜ばすことになっているだろう。趣味の延長が仕事になっている状況が多分にある。

初期の得体のしれない不気味さは、似た芸人を探すのが難しい。たこ八郎? いや、あれは天然だものね。その後のオタクさや文化人的なセンスは、大橋巨泉の正当な後継といえなくもないが、彼よりもずっと嫌味がないのが良い。初期のタモリを知るなら、本人のCDをおすすめする。『タモリ』『タモリ2』は、それ以前も以後も彼以外ではまったく経験したことのないおかしさで、抱腹絶倒すること間違いない。

新宿アルタに行きたいとは一度も思わないが、生タモリを一度だけ観たことがある。30年以上前に新宿コマ劇場で山下洋輔バンドのライブがあったのだが、そこにトランペットとボーカルで出演したのである。筒井康隆もクラリネットかなんかで出ていたと思う。山下人脈で固めたバンドであった。正直に言ってトランペットは上手いわけではなかったが、トークやパフォーマンスは抜群だった記憶がある。

本人の夢は、ジャズミュージシャンになってマイルス・デイヴィスと共演することだったらしい。もちろん冗談だったのかもしれないが、その後マイルスとは対談しているので、夢は半分かなったのかもしれない。あ、植草甚一のレコードの話とか、タモリとジャズについては書ききれないほどのエピソードがあるんだなあ。

日常(テレビに出ない素の部分)は、いたって真面目で品行方正といわれている森田一義氏が、タモリになった途端に、豹変するようにスターぶりを発揮するというそのギャップもおもしろい。渥美清も「寅さん」とは正反対であったようだし、喜劇人にはそういう人が多いみたいだ。「永遠に謎の人物」というコピーは、タモリにふさわしいのかもしれない。

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