モノとプラットフォーム(8)-コミュニケーション

2011年4月23日

前回のこのシリーズからずいぶんと間があいてしまいました。
おそらく、一生の間に二度と経験することがないであろう(そうあってほしい)大震災は、これでもかというほど多くの教訓を残しました。被災や被害に直接関係のない地域の人々も、なんらかの影響を受けています。これは日本の有事なのです。平時には話すことも交流することもなかった人同士が、コミュニケーションすることを足がかりとして復活へと歩み出しています。

 

よく「人は一人では生きていけない」と言われるがまったくそのとおりで、このような有事の時にこそそれを痛切に思う。コミュニケーションとはそのことだ。社会生活そのものでもある。生身の人間として話す、電話をする、手紙・ハガキで知らせ合う。これがITが普及する以前のコミュニケーション。そして今の時代は、メールとブログ、twitter、mixi、Facebookといったソーシャルネットワーク(SNS)もその道具となっている。

どれも言葉があり、ニュアンスこそ違えども感情も伝えられる。年代や環境によってそれらを使いこなせるかどうかは問われるが、少なくともコミュニケーションの選択肢は、ぐんと増えている。

マスコミはマス・コミュニケーションの略語だが、これはコミュニケーションなのだろうか。情報を大衆に大量に提供するのだが、あくまでも一方向の流れであり、とてもコミュニケートしているとは言えない。まして、そのバックボーンにビジネスとしてクライアント(広告主)が存在する限り、どちらを向いてその情報の取捨選択をしているのかわからない。

モノ時代の限られたコミュニケーションは、IT革命によりインターネットというプラットフォームができたことで、安価に、ほぼ同時に双方向のやりとりができるようになった。リアルかそうでないかに関わらず、この双方向こそがコミュニケーションの本質だろう。

つまり、インターネットの出現は、マスコミの矛盾をついたのだと言える。ネットワークというインフラにぶら下がっているにせよ、個人が世界中の人々を相手とするパーソナルコミュニケーションを持ち得たのだ。

ネット利用のコミュニケーション(これをWebコミュニケーションと呼ぼう)は、決して既存のコミュニケーション手段にとって変わるものではない。この有事でわかったことは、当たり前のようだが、まずリアルのコミュニケーションが最も重要であるということだった。電話は携帯電話を含めて通じない事態を招いた。

一方、Webサイトやブログ、ソーシャルネットワーク、特にtwitterはかなりの部分でコミュニケーションを実現できた。避難場所の被災者の方たちとは直接コミュニケーションできなくても、そこをフォローする自治体やボランティアの情報のやりとりには大きな役割を果たしている。

モノ時代とプラットフォーム時代のコミュニケーションは互いに補完関係にある。twitter、FacebookのようなSNSコミュニケーションがどこまで根付くかは未知数だ。デマや風評の拡散など負の部分もあることは否定できないが、それはリアルのコミュニケーションやマスコミでもあることだ。SNSが当たり前、という世代が主流になる日もそう遠からず来るのではないだろうか。

Web上では、チャットのような会話コミュニケーションや、テレビ会議、Skypeといった実際に顔を見ながらのリアルに近いコミュニケーションも可能だ。スマートフォンやモバイルパソコンを利用すれば、場所も選ばない。

東電原発事故により企業の節電機運が高まり、「在宅勤務」が現実のものとなりつつある。リアルのコミュニケーションでなければ不安や不信を感じていた企業や取引先も、幸か不幸かこれを契機としてその効率を試し始めるだろう。

 

ここではコミュニケーションの形態のみを述べ、コミュニケーション自体の内容については触れていない。ただ、この国の最高責任者、政府、東京電力、原子力保安院等々の国民とのコミュニケーションは、その手法も含めて最悪と言わざるをえないことだけは確かだ。それにくらべ、数々の著名人、そして天皇皇后両陛下のコミュニケーションはどれだけの人を勇気づけているか計り知れない。

モノとプラットフォーム(8)-コミュニケーション」への3件のフィードバック

  1. Snafkin7

    A)マス・コミュニケーション
    B)ネット・コミュニケーション
    C)リアル・コミュニケーション
    今の図式はそうですね。
    以前もそうかもしれませんが、特定の領域に関しては、マス・コミュニケーションも例外があったような気がします。
    キャンディーズの解散コンサートは、自分の誕生日だったので鮮明に覚えてますが、彼女らの行動は、A)での矛盾をC)で思いっきり懺悔したおそらく最初で最後の行動だったような気がします。踊り方が尋常じゃないんですね。カメラ向けじゃないんです。対一人一人みたいな不格好な踊りですが、それだけ心がこもっている。
    http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=PYaYMHdiEYg
    「普通の女の子に戻りたい」という言葉は、マス・コミュニケーションの立場から発した、最高の着地点だと思います。そして意識しているという意味でC)の立場でA)を実現している最初で最後のことだったように思えます。
    今は、B)があるので、A)→C)というような軋轢のかかることもおこりにくいんでしょうけど…
    A)B)C)いずれにしても、どっちを向いているんだということですね。“ターゲット”に向いているのか、“生身”の人間に向いているのか…
    私は、生身の人間に向いていたマス・コミュニケーション(ラジオが多いかな)も体験しているので、まだマス・コミに未練はありますが、震災、原発で浮き彫りにされたマス・コミの醜い構造はご指摘の通りだと思います。
    東京電力に対しては、私自身、ツイッターで手酷く攻撃をしましたが、東電社長が被災地に行って、被災者と手を握りあってるシーンだけは、信じたいような気がします。その瞬間だけは信じたいような気がします。
    話はもとに戻りまして、一度C)に降りた、綺麗に着地した田中好子さんが、病気の弟さんの願いを叶えるために再びA)の場所に離陸したパワーも凄いと思います。
    「微笑みがえし」の映像を何回も見ていると
    ランちゃんセンター
    “わな”でミキちゃんセンター
    最後にスーちゃんセンター
    に切り替えて、キャンディーズの歴史を再現したりしています。これもアイドル史上最初で最後でしょう。
    こんなフラットなトリオもないでしょう。
    こんなことを書いていると、私たちの理想は過去にしかなかったような気がしてきますが…
    睡眠逃避の中の、突発起きの文章なので、かなりフツーじゃないですけどwお許し下さい。

    返信
  2. kasttbs

    Snafkin7さん、コメントありがとうございます。
    ここでキャンディーズが出てくるとは…。
    なんか明確な図式を示していただいて感謝します。確かに現在はB)が緩衝材になっていますね。それが良いのか悪いのかということは良くわかりません。
    「普通の女の子に戻りたい」というように、マスによって創り上げられたイメージに対して公然と反旗を翻したのは、芸能史上でも画期的なことです。本当に勇気のあるアイドルでした。そのことにファンが応えたという意味では、本当にコミュニケートできていたのだと思います。
    余談ですが、昔からマドンナを目に浮かべたときに現れるのが夏目雅子と田中好子でした。奇しくも、この二人が親戚関係にあり、どちらも早逝してしまうなんて、無慈悲です。

    返信
  3. Snafkin7

    ありがとうございます。
    B)の出現によって、A)はすねて、いじけて、かなり性格が悪くなった。というような視点は、今まで誰も言ってませんが、なくなもないなというような気がしますw
    以前、翼の方にリブログいただいた「ツッコミ文化」に顕著なようにA)はB)にツッコミ、ツッコミ、されてボコボコ状態ですしw
    アフィやミニ広告はあったとしても、B)は基本的に抑圧なく自由ですので、それだけ人の思いに近い、という意味で、いいメディアなのでしょう。
    A)がこうなったのはシステム悪なのか、構造悪なのかはわかりませんが、どうなっていくんでしょうね。
    震災、原発は、本当に多くのことを見直すよう、提示してくれたと思います。あまりにも重い現実もありますが、すべてをさらけだした。
    Web Designの雑誌では、この震災時に、それに対応した、いかに使いやすい、デザインの良いサイトを作ったかというような特集が組まれてましたが、こういう検証っていうのも大事だなと思います。
    A)でも資本の闇とつながっていないものは、まだ健全なものもないこともない。
    あまり細かいことをやっても意味ないと思いますので、自分のできることは例外をみつけていくことかなと思います。ストレスはたまりますが…w

    返信

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