モノとプラットフォーム(4)-本

2011年1月5日

昨年に盛り上がり始めた電子書籍ブームですが、本格的な普及という意味では今年が元年になると推測されます。今年最初の『モノとプラットフォーム』は「本」を取り上げます。

 

まず前提として、「電子書籍」は既存のモノである「本」とはまったく別物だということを力説したい。個人的には「本では無い」と思っている。別名が欲しいところだ。電子メールやEメールが単にメールと呼ばれるようになったが、それを誰もハガキや手紙といった郵便物の英訳としては意識していない(逆にゆうメールやメール便など、既存の物流でそのネーミングを使っているのは時代の逆転現象といえる)。

結局メールは、モノである郵便物のそれを一部代替したものの、使われる用途や役割はだいぶ異なり、さらに新しい道具がプラットフォームの中に生まれたのだとするほうが理解しやすい。年賀状や海外であればX'masカード、グリーティングカードという「モノ」が無くならないことが良い例といえよう。

同様に「電子書籍」や「電子雑誌」というネーミングも、モノである「本」を代替する役割を無理に演じさせられているかのようにみえる。そのことは、それらが普及するまでの混乱を招いたり、既得権益者との複雑な摩擦を生み、折角のツールの普及を妨げる原因になっているのではないだろうか。「本」では無く、まったく新しいカタチが生まれてきていると捉えるべきではないのか。

本は読めればいいだけか?

書籍や雑誌など、今までに触れてきた「本」とは一体何だろう。表現形態が起承転結の形を取り、文脈(コンテキスト)を持っているモノ。表紙があり、目次があり、本文があり、イラストや写真や図表などの画像があり、あとがきや編集後記があり、奥付があり、裏表紙がある。

別に文字がある必要はない。写真や絵だけの本でも何らかの意思を持ってその一冊が編集されたものであれば、そこには起承転結がある。それは紙というモノに物理的に定着され、綴じられることにより、なかば強制的に読書環境を固定化する。この読書環境の固定化を実現するモノが「本」でないだろうか。誰もが同じものを見ることができる。

文字や絵は、何物かに書き記すということでコミュニケーションができた。それに文脈が与えられ、同時代や後の世に伝えるためにパッケージ化された。巻物であり冊子である。その後、グーテンベルクが印刷という大量複製技術を発明することで、広範囲に伝播する媒体になった。その最初は聖書であり、宗教が宗教家に依らずとも一般大衆に布教できる原動力ともなっていったのである。「本」は一大メディアと化した。

音楽のプラットフォーム化との違いを考えてみよう。それは五感の違いに他ならない。聴覚だけで成り立つ音の世界。それに引き換え、視覚、さらに紙や装幀の素材を感じる触覚、そして時として嗅覚までをも動員される「本」の世界。視覚以外のそれらを、現段階でのプラットフォーム技術で置き換えられるとは思えない。iBooksやi文庫などが、モノとしての「本」の雰囲気(めくれるような紙のメタファー)をプラットフォーム上で再現させることで読者の違和感を緩和しようとしているが、これは過渡期ならではのギミックといえる。ある意味「こけおどし」なのだ。

音楽パッケージとしてのモノ(ジャケットやレーベル)は多分に感傷的なものが入るのだが、「本」の場合は、パッケージそのものに五感がコラボレーションされる。装幀や紙に定着された文字の並び、見え方など、コンテンツ以外の要素も合わさって、読み手側の深層的な部分に影響を与えているという「本」はゴマンとあろう。決してノスタルジーではない。

プラットフォーム化はケースバイケース

逆に言えば、単に読むという視覚だけで成り立つ「本」であれば、プラットフォーム化しても違和感はないだろう。それどころか、音や映像、コミュニケーションツールといったプラットフォーム上のコンテンツを駆使することで、「本」という「モノ」の形態では実現できないことが可能になる。辞書やマニュアル、参考書、実用書などだ。

また、コンテンツという情報を読んでもらうためだけに印刷や流通といった経費を必要としていた簡易的な書物、つまり漫画や文庫や新書といったものもその対象になる。雑誌も内容によっては紙とはまったく異なる斬新な表現が可能だ。これらは今までに「仮に本と呼ばれていた」のだと定義したい。今となっては、新しい革袋に相応しいものたちなのだ。

これらのプラットフォーム化において、とうにWebサイトで実現できていたことを何をいまさら血道をあげているのか、という意見がよく出る。Webサイトとの最大の違いは、パッケージ化できるかどうかということだろう。Webサイトは究極のクラウドサービスだ。国民一億総ネットワーク化とはとてもいえない現状で、すべてを常時ネット接続させ、いつでもどこでもクラウド上のものを読めるとは限らないのだから。

また、以前からのパッケージフォーマットとしてPDFがある。現在の雑誌や書籍の電子化でも、このフォーマットを利用しているものが多い。これは、紙用のデータを変換するために経費がほとんどかからない、対応が早くできる、誰にも同じレイアウトで見せたい、などの理由が主だろう。

しかしあくまでも紙上の体裁である。文字もレイアウトもディスプレイで読みやすいとは思えないことが多い。心あるデザイナーであれば、それを有料で配信するなどということには反対のはずだ。プラットフォーム化した電子の雑誌や本はこういうものである、という誤解を引き起こす最悪のパターンではないだろうか。(ただし、携帯や保存のための自炊という行為は、本人が理解をしてやっているわけだからいいと思います)。

現状でのフォーマットは、文脈重視であるならばリフロー系のフォーマット(EPUBやAZW)、レイアウトや見せ方を出版社や著者側でコントロールしたければアプリ(プログラムによって生成されているパッケージ)というように大別される。リフロー系のEPUBは現在でも動画が埋め込めたり、Twitterと連携できたりと機能的にはかなりのことまでが可能だ。Podcastで配信もできるようになっている。

EPUBのバージョン3では、縦組やルビ、外字の使用といったことが実現できるようになるといわれている。日本独自の仕様であるシャープのXMDFや.book(ドットブック)も、最終的にはEPUBに移行せざるをえないのではないだろうか。その機種だけでしか読めないというクローズドなフォーマットでは、携帯のガラパゴス化と同じ道をたどるような気がするのだ。

残る「本」は残っていく。

昨年、アップルが iPad を発表してからマスメディアが「電子書籍」の大合唱を始め、世間には一種の強迫観念が植えつけられていく。「本は電子書籍になる」と。大手出版社も取り組み方では完全に談合体制である。どこかに言われたからやる、という発想。そんなやり方で業績が回復するとは思えない。しつこいようだが、「電子書籍」は「本」の代わりではない。

本が読まれなくなったといわれるが、モノとしての「本」であれ、プラットフォーム上の「読む物」であれ同じだ。プラットフォーム上で売れているものは、ほとんどがガラケー用のコミックだ。人が使える絶対時間は決まっている。現代人は数ある欲望を満たすために忙しい。読書に費やす時間が減るということは、それだけそのものに魅力がなくなってきたということでもある。しかし、本当に「本」が好きな人はどこまでも好きなはずだ。デジタルデバイドなどというものに左右されずに誰でも読むことができる。

当然のように市場は細るだろう。優先順位が下がってきたときに、それを市場としている業種(この場合は出版社、印刷会社、著述業)は縮小や転換を余儀なくされる。やむを得ないことではないか。それをIT革命の犠牲者のようにいうことだけはお門違いだろう。発想の大転換こそが日本の出版社の生きる道だ。

 

モノとプラットフォーム(4)-本」への6件のフィードバック

  1. Marketing0

    こんばんは。
    ここの文章の中に出てくるメーカーさんのある報告書をつくってますが、印刷をほとんどやめて電子化する方向になった時、議論するまでもなくあっさりPDFでつくることになりました。
    その時面白かったのが、印刷屋さんがなくなった分、なんとか売上げに結びつけようと電子書籍でつくってはどうかと提案したことなんです。そのメーカーさんは有名な電子書籍ハードも売っているので(笑)ちょうどいいじゃないかという理屈なんですね。
    しかし、スタッフみんなはそのコンテンツのこと知り尽くしてますから写真を多少動画にしようがグラフを動かしたところで何も意味がないと直感的にわかってるわけでPDFで充分ときっぱりなったんですね。もちろん無料ダウンロードです。
    おっしゃるように、本や冊子をなんでもかんでも電子書籍にするという方向は違うと思いますね。
    3D映画で構図や見せ方が2D映画と変わってくるように、電子書籍には電子書籍ならではのメッセージや印象の伝え方を開発すべきでしょうし、本当にいい感じの見せ方があるはずだと思います。ケータイ小説にはケータイ小説の文体(のようなもの)があるように…
    デジタルですから、転換というところがミソで、ストーリーものであれば、読みようによっては、ストーリーが変わってしまうもの、とか(そりゃゲームですね・笑)この間、上戸彩の5年ぶりの写真集(North East West)を買って無茶苦茶気に入ってるんですが、これ、電子書籍で面白い風になんないのかなとか…なったら、いつでも俺、へろへろ見てるよ、みたいな(笑)紙だけじゃもったいないって…そうなってくると、めくるような感覚じゃなく、パッパッと脳を刺激するようなもの、風を感じるもの、海を感じるもの、といいますか、よくわかりませんが…手紙なんかは本人の声でつぶやかれたら、すごいものになるなと…
    そういう演出のディレクターというかデザイナーさんが噛んだ方が面白いような…
    そんな気がします。

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  2. kasttbs

    コメントありがとうございます。
    S社ですね(笑。
    日本の大手企業の発想って、始めにハードありき過ぎるような気がしてなりません。
    技術があるのはわかるんですが、それにおごらないようにしたほうがいい。
    それで儲けを得ることから脱却しないとまずいと思います。所詮メーカーだから無理なんでしょうか。
    >そういう演出のディレクターというかデザイナーさんが噛んだ方が面白いような…
    アナログとデジタルの魅力を深いところで理解し、自由に横断しながらディレクションできる方。
    それができる方、今の日本にはまだ数えるほどしかいないようです。

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  3. Marketing0

    ですかね(laughter.
    お返事ありがとうございます。
    “アナログとデジタルの魅力を深いところで理解し、自由に横断しながらディレクションできる方”
    電子書籍に限らず、アナログとデジタルの快感、ツボのわかってる人、にいろいろ開発して欲しいですよね。それは同時に「人」をわかってる人だと思うんですね。それこそ深いところで…
    「トイレの神様」みたいに話(曲)の進行とともに音が増えてきて、グッとさせる、人の気持ちをわかってるアレンジャー…
    なんか具体例がいろいろ出てくると賑やかになるのかもしれないですね。
    まだまだ雲をつかむような話ですがw

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  4. kasttbs

    松本さん、ブログ拝読しました。
    あの内容だとそちらのブログが相応しいと思います。
    でもコメントを受け付けていないようなので、ここでバックします。
    >「こういった野蛮の状態を経ることで、新しいメディアの本質が明らかになっていきます。」
    「野蛮な時代」ですか。うまい表現ですね。
    僕の好きなブログで「焼け跡」と表現している方がいます。
    どちらも、戦後の闇市のような混沌が伝わる言葉です。
    おっしゃるように、野蛮な時代であるとともに「心おどる時代」でもある時に生きていることは確かなのですが、世代によって捉え方がかなり微妙になってくる場合もあるかもしれません。
    このシリーズは現在のそういう様々な現象を、自分自身ではっきりと認識するために書き記すことにしたものです。もうしばらく続けます。

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  5. 松本淳

    松本です。なんでか、コメント機能がわからないんですよ。引越し先のブログシステムをよく理解できていない自分が情けないですね。
    「野蛮」は、もう15年くらい言い続けてるんですが、ようやく説得力のある現場を見つけた感じがしています。けど、これはある意味、過去の経験が通用しないところでもあるんですよね。過去を活かしつつ、過去を捨て去ることができるのかどうか、自分の動脈硬化度との戦いです。そういう意味で、kasttbsさんのこのシリーズからヒントを得ることができればと楽しみにしています。

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